本の紹介
対象作品:佐藤秀峰
『ブラックジャックによろしく』
単行本第8巻より
あらすじについて
膵臓がんが骨転移した主婦・辻本は、末期がんで根治の可能性がないことを告知されていた。未承認薬による不確実な治療を提案する研修医・斉藤との対話の中、辻本は生きるためになにをすればいいのかと涙する。
生きるための答えを求め、辻本は抗がん剤否定派の医師・宇佐美と面会する。宇佐美は、かつて一人の末期がん患者を愛し、未承認薬を使用した上に助けられなかった過去を持っていた。辻本の期待と裏腹に、死を受け入れ、生への執着を捨てることを促す宇佐美の言葉に、辻本は絶望し号泣する。しかし、宇佐美へ反発する斉藤の「生と向き合うことは死と向き合うことと同じではないか」という言葉を聞き、辻本は「がんと向き合う」ことを決意し、未承認薬を使いたいと申し出る。
未承認薬使用の経過は良好だった。辻本は自分が生きたいと思う理由について考え続ける。同じ末期がんに冒される患者や、すべてを告知しようと決めた夫、そして夏休みを控える子供たちとの対話を経て、辻本は入院をやめ「家族と一緒にいよう」という結論に至る。
斉藤から手厚い紹介状を渡され、心置きなく退院した辻本は、夏休みを自然溢れる実家で過ごし、思い出の大樹の下で子供たちへ自らの死を告白する。濃密な家族の時間を過ごした後、再入院した辻本は、家族に見守られる中、思い残すことなく安らかに息を引き取る。
その後、辻本の一連の治療をきっかけに、病院に緩和ケア科が開設されることが決まるのだった。
Interview私はこんな感想を持ちました
がん患者会シャローム 代表
植村めぐみさん 写真右
自身のがん闘病(摘出手術・化学療法)を経て、2006年、地域に根ざすがん患者会シャローム(埼玉県杉戸町)を設立。現在はがん患者のみならず、家族や遺族、再発・転移患者の集いの場を設けるなど、精力的に活動を続けている。
植村めぐみさんのHP
副代表
増田しのぶさん 写真中央
肺がんの手術・化学療法を行った後、再発。現在はがんを抱え治療を受けながらも植村さんと共に患者会の活動に注力している。
会員
小林真理子さん 写真左
がん闘病をきっかけに同会に入会し、摘出手術後は闘病する仲間を支える立場としても活動を続けている。
“生きることをあきらめること”が死の受容ではない
根治が見込めず、余命もわずかであることを告げられ、やり場のない思いを抱えるがん患者・辻本さん。抗がん剤治療を行わない医師・宇佐美の存在を知り、面会を求めます。
増田 宇佐美医師は、婚約者をがんで亡くして、そのことがものすごく大きな傷になっているんですよね。彼女の最期の言葉が「もっと生きたかった」というもので、自分が「彼女を“生”に縛りつけることしかできなかった」と思い込んでいる。だから辻本さんに「生きることに執着をもつな」なんてとんでもないことを言うのですが、でもそれってホントかな? 生きていることは彼女にとっては希望だったんじゃないかな? と思いました。
植村 私もそう思います。周りにいる者が納得いく言葉…たとえば「ありがとう」とか「さようなら」と聞けばその人は“死を受容している”ということになって、彼女が「生きたかった」と言えば“死を受容できなかった”と判断するのは、あまりにも短絡的ではないか…と。目に見える形、聞こえる形なんでしょうか? 死を受容するとは…。
小林 うーん。
植村 受容しながらもなお生きたいと思う人を、これまでたくさん見てきました。以前、ホスピスに入った会員さんがね、「ホスピスにいるのに、私、今この瞬間に新薬が出て、私に投与してくれないかなって思っているのよ、これっておかしいかしら」と話されたことがあって。命の最後の一滴まで生きようとする本能を人はもっていると思うんです。だから、人が「死にたくない」と思う感情はむしろ自然で、それと死を受容することとはまったく別のことだと思うんです。
小林 私がここで思い出したのは、ある再発患者さんの「私は死に向かって生きているのではない」という言葉です。患者はだれも、死に向かって生きてるわけじゃない。私はもうとにかく、死を突然目の前につきつけられて苦しんでいる辻本さんに対する医師の発言として、許せないんですよ、この宇佐美医師が。
増田 本当にそう。“いかに自分らしく生きるか”を主軸に話し合えない悲しい場面だなと思いました。
小林 でもそのあと斉藤医師が宇佐美医師に反論してくれますよね。私、ここは全面的に斉藤医師の意見に賛同します。
増田 私も。私自身の気持ちを斉藤医師が代弁してくれたように思えて。必死に自分らしく生きようとすれば、自ずと自分らしい終わりを迎えることができるんじゃないかって、思います。
植村 でも斉藤先生、ちょっと“いいとこ取り”よね。伝えにくいこと、みんな宇佐美医師が言ってくれたもの(笑)。
残された時間を意義あるものにする“告知”
傷つきながらもがんから目をそむけず、自らの意思で未承認の抗がん剤治療を選び取った辻本さんに、医師たちは次第に心を動かされ、残された時間を「家族と過ごしたい」という辻本さんを見守りサポートしていくようになります。
辻本が、自分の人生にとって一番大切なものは何かを自問し、答えを導き出そうとしているシーン。夫は妻の死を受容し、支える強さを持つ人間として描かれている。
夫のサポートの中、彼女にとって最も大切なもの「残される子どもたち」に目が向けられていく。
小林 がんが治らないとわかっていてもなお、未承認の抗がん剤を使いたいという辻本さんの決意は、やはり幼い子をもつ30〜40代の母親だからこそかな…と思います。
植村 生半可ではないですからね、小学生や幼稚園の子どもをもつお母さんの気持ちというのは。「私はまだ子どもに何にも教えてない」という強い思いがある。成長は見届けられないけれど、短い時間でも濃い関わりをして、私がいなくても子どもたちが困らないように…って。
増田 そう思う親心、すごくわかります。
「どうして私に全部告知しようと思ったの?」という辻本の問いに夫が答えるシーン。眉間の皺、噛みしめる歯に、夫の深い苦悩と妻への思いがみえる。これに対し辻本は「(私が死んでしまったら)残ったあなたたちの気持ちを私はどうすることもできない」とやりきれない思いを返す。先立つ者、残される者、両者それぞれの思いが交錯する。
小林 辻本さんの夫も、言葉少ないながら懸命に寄り添って、いいサポートをされましたよね。悩んで苦しんで、でもやっぱり妻にすべてを告知しようと決めた。
植村 残された時間を本人が意味のあるものにするために、「治らない」ということを本人に伝えることは、絶対に必要だと私は思います。辻本さんも、そこで初めてがんと正面から向き合って、一番大切なもの=子どもたちに心が向きましたよね。
自分の思い、そしてまもなく死んでいくことをどのように子どもに伝えればよいのか——辻本さんは子どもたちとの最後の夏休みを故郷で一緒に過ごしたいと願い、奏効している治療も中止を申し出て、東京を離れます。
植村 辻本さんから子どもたちに「自分が死んでいくこと」を伝えるシーンはまさに子どもにとっての“告知”=衝撃の場面ですよね。私は患者会の活動を通じて、子どもにきちんと伝えた人もそうでない人も見てきましたけれど、一つ言えることは、もし患者本人が「治らない」という告知を受けていなければ、子どもに伝えるかどうかすら、自分で考えることができないということです。
小林 残される家族のために、精一杯の感謝や愛情を伝えることができたのは、辻本さんが自分の死を受容する過程で、終末期をどう過ごしたいかをきちんと考えることができたからですもんね。子どもたちに対してもそうだし、夫の「自分の死に悔いを残してほしくない」という思いに応えて「何も後悔なんかしてない」と、さり気なく返したことにも、残される夫にとってすごく意味のある言葉だったと思います。
辻本が自分の死を子どもたちに“告知”するシーン。ショックを受けるであろう子供たちへ精一杯の穏やかな表情を向け、丁寧に言葉をつないでいく。このシーンで、辻本は「謝罪」の言葉を一切口にしない。私は悲しくないし後悔もしていない、だから、悲しまずに強く生きてほしい……辻本の言葉は、直接見守ることができない子供たちの未来への願いだ。
痛みのない終末期のあり方
辻本さんのエピソードは、WHOの“緩和ケア”の定義にある「苦痛を和らげQOLを改善する」ことができた事例と考えることができます。その結果、辻本さんと家族は、ひとつの望ましい死を達成できたと言えるかもしれません。その背景には、庄司、宇佐美、斉藤を中心とした医療スタッフの緩和ケア・アプローチがありました。
宇佐美の表情からかつての険しさが抜けている。十分なペインコントロールのもとに、最小限の医療処置で静かに患者の最後の時を支える医療者の姿が描かれる。「あと数日」という言葉にも、悔いや絶望の響きはない。
「病院で死ぬ」ことは必ずしも不幸なことではないと思わせる穏やかな時間が流れる。
増田 前に宇佐美医師も言っていますが、「終末期の医療は、ほとんどの日本の医者が考えているような簡単なものじゃない」「本当にモルヒネを使いこなせる医者なんて、ほんの一握りだ」という、末期がん患者にとっての厳しい現実がありますよね。辻本さんのような状態の人が、終末期にものすごくうまく痛みをコントロールできていたことは、辻本さんや家族にとって幸いだったと思います。
植村 緩和医療はどの医師にもできることではなく、高い技術や経験が必要だと、私もすごく思います。
小林 そうなんですよね。家族水入らずの穏やかで貴重な時間をもつことができたのは、ひとえに宇佐美医師の緩和の手腕があったからこそだと私は思うんです。それを引き出したのは斉藤医師の熱意であり、抗がん剤を延命のためではなくQOL向上のために使った庄司医師の柔軟な判断力。旅行に出る前に斉藤医師が「どこにいても同じ治療が受けられるように」と紹介状を持たせてくれるシーンがありますが、3人の医師の技術と思いが辻本さんの終末期を輝かせたんだと思います。
増田 病院に戻って最期を迎えるのもきっと辻本さんの意思で、それは医師との間に確かな信頼関係を感じていたからこその選択ですよね。
小林 私たち、どこで死にたいかと問われると「やっぱり自宅で」なんて思いがちだけれど、こんなふうに最愛の家族がそばにいて、信頼できる医師がいて、病院にいながらルートも無用な点滴もついていない、管の1本も体に入っていない死に方があるなら、私もこんなふうに病院で最期を迎えたいなって。宇佐美医師には最初は腹も立ったけれど、最後はやっぱり「ありがとう」って言いたいです。
基礎知識
ホスピスの歴史
終末期医療を担う施設にホスピスがあります。ホスピスは、中世ヨーロッパにおいては、旅の巡礼者を宿泊させた教会のことを指し、ラテン語のホスト(主人)とゲスト(客)を語源に持つ、客を温かくもてなすことを意味する言葉です。世界初のホスピスは、1967年、ロンドン郊外に開設された「セント・クリストファー・ホスピス」と言われています。主に末期がんの患者の全人的苦痛をケアすることを目指したこの施設は、近代ホスピスの基礎となり、世界的な広がりの先駆けとなりました。
わが国では、1981年に、聖隷三方原病院(浜松市)に日本初のホスピス病棟となる“聖隷ホスピス”が開設されました。1984年に、淀川キリスト教病院(大阪市)に西日本初となる病棟型ホスピスが、1986年、九州では栄光病院(福岡県志免町)が院内病棟型のホスピス(36床)を開設しました。これらの国内初期のホスピスは、いずれもキリスト教系の施設でした。
日本初となる国立のホスピスは、1987年に開設された国立療養所松戸病院(現在の国立がん研究センター東病院)です。
また、1990年には「緩和ケア病棟入院料」が新設され、国が認めた一定の基準を満たす「ホスピス・緩和ケア病棟」で行われるホスピス・緩和ケアに対し、医療保険から定額の医療費が支払われるようになりました。
ホスピスの現状と課題
医療者側の視点で、ホスピスの現状と問題点をみてみましょう。
1990年の医療保険適用後、ホスピス施設は増加していきました。1990年当時、ホスピス施設はわずか5ヵ所で総病床数は117床でしたが、日本ホスピス緩和ケア協会の調査によれば、2014年1月時点で321施設、総病床数は6,421床にまで広がっています。
反面、2015年、わが国で最初の独立型ホスピス「ピースハウス病院」が経営難から病院経営の中止を発表しています。
ホスピス緩和ケア白書によれば、2011年の緩和ケア病棟の状況は、院内独立型が20%、院内病棟型が78%、完全独立型は2%(6施設)となっています。
ホスピス・緩和ケアに医療保険が適用されたとはいえ、定額制ゆえに患者本位の充実したケアを行うと赤字が生じてしまうという課題があります。「ピースハウス病院」のような完全独立型は、その赤字を他の病棟で補填することができません。総合病院の緩和ケア病棟では、可能な病院機能の活用や病棟間のスタッフの流動的運用が難しく、より多くの人材を必要とし、財政上の問題、スタッフの補充問題など、さまざまな課題を抱えていることが分かりました。
臨終前後の家族の経験
患者やその家族は、ホスピスについて、どのように考えているのでしょうか。
前提としてある「ホスピス=死」というイメージ。誰にでも訪れる死を、ホスピスに入ることで患者や家族が実感させられることは確かです。その死に対する理解、恐怖感を和らげることがホスピスの現場に求められています。
日本最大の遺族調査J-HOPE studyでは、2007年に日本国内の95のホスピス・緩和ケア病棟で死別を経験した670名の遺族に、臨終前後の家族の経験と望ましいケアについて調査(回答率73%)を行っています。遺族は、臨終前後の体験が「とてもつらかった」が45%、臨終前後のケアに対して「改善が必要な点が非常にある」が1.2%、「改善は必要ない」が58%と回答しています。
遺族の「つらさ」は、「患者の年齢が若い」や「遺族が配偶者」などが大きな要素となっています。また、医療者に求める改善の要素として、「患者の安楽の促進」「患者への接し方やケアの仕方のコーチ」「家族が十分悲嘆できる時間の確保」などがあげられています。遺族にとって、患者の苦痛を解消してほしい、患者に対してどのように接すれば良いのかという不安、患者の死を受け入れる時間が望まれていることが分かります。
『誰も知らないイタリアの小さなホスピス』(横川善正著・岩波書店)にこんな一文があります。
看取りとは、最期を生き切る患者と一体となった、いわば駅伝の伴走のようなものではないか…(中略)ゴールに倒れこむ患者の手から、あとに残された家族へとたすきが受け継がれ、それを見届ける役目のことである。
国や施設、病気を問わず、この言葉のように、真に患者に寄り添える医療スタッフの育成こそが、もっとも求められているのではないでしょうか。
参考文献
- ブラックジャックによろしく(佐藤 秀峰)
- 緩和ケア病棟入院料届出受理施設一覧(特定非営利活動法人 日本ホスピス緩和ケア協会)
- ホスピス緩和ケア白書2013(日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団)
- 誰も知らないイタリアの小さなホスピス(横川善正著・岩波書店)
- 遺族によるホスピス・緩和ケアの質の評価に関する研究(J-HOPE) (日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団)
時代背景に関する注意点として
本記事の題材『ブラックジャックによろしく』は、2002年から2006年に渡って連載されたマンガ作品で、主人公の研修医の視点を通して、当時の日本の大学病院や医療現場の現状が描かれています。
がん診療の進展は文字通り日進月歩であり、連載当時から10年以上の月日がたった今、がん告知のありかた、がん化学療法、がん化学療法の副作用対策なども大きく変わりました。
例えば、マンガに登場するTS-1は、代謝拮抗剤に分類される抗がん剤です。この医薬品は連載当時も保険収載されていましたが、膵がんが適応外でした。現在では、胃がん、大腸がん、頭頸部がん、乳がん、膵がん、胆道がんなど、さまざまな固形がんに幅広く用いられています。また近年では、新たに開発されている抗がん剤の大半を分子標的治療薬が占めており、その中でも免疫チェックポイント阻害薬が特に注目を集めています。
マンガの中では抗がん剤の激しい嘔吐などの副作用に苦しむ姿が描かれますが、制吐剤の進展や患者さんの悪心・嘔吐の制御についての研究も進み、2015年には制吐薬適正使用ガイドラインも作成され、患者さんの苦しみも改善されてきています。
また、2004年に新医師臨床研修制度がスタートしていますので、2002年の時点で、主人公の研修医は現在の臨床研修制度とは異なる制度の下で研修をしていることも補足しておきます。
このように、がん診療をめぐる環境は、連載当時と大きく変化していますが、患者さんの持つ悩み・苦しみは変わりません。
国民の2人に1人ががんになる時代、この記事が患者さんやその家族の視点を考えるきっかけになれば幸いです。
(2018年11月 編集部)